イメージする

 

 会社が倒産する前にも、菅野は自分の好きなものを空いた時間や余った材料などを使って、つくる作業はいつも行っていたという。<具体的にどんな想い、どうやって、いつ?>しかし、やはり菅野が元々もっていたモノづくり魂に火が灯ったのは、倒産以降の新生菅野になってからだった。菅野は自分のつくりたいものを自問した。「どうすれば自分の欲しいものができるのだろうか?」と。もちろん菅野くらいの職人の手にかかれば、手軽につくったモノであっても、そこそこの品質のものはできあがる。彼自身、その出来映えには満足していたし、使い心地にも満足していた。適当な用足しのものをつくるだけならば、彼にとってはきっとそう難しいことじゃなかったのだろう。彼にとっての、その余暇的なものづくりというのは、頭の中にあるイメージを自分の手の上で材料と道具を転がして、3次元空間に物質化するという作業だけだからだ。しかし、菅野は自分自身に、「もっと」や「それ以上」を求めて試行錯誤を繰り返したのである。

 

 世界中どこの町工場を訪ねても、こうした日曜大工的なモノづくりをやっている職人というのは、案外いるはずだ。便利なものをたまの休みに製作してしまう。しかし、菅野が特別なのは、彼がつくり出すモノのクオリティが尋常じゃないほど高いいうことだった。私は、彼がはじめにつくっていた書類ケースや鞄というものを何度も見せてもらったが、その美しさは筆舌につくしがたい。つまり、「自分が欲しいと思うものをつくっただけ」というのは、「こんなもの、つくってみました!」ということではなく、モノに対しての徹底的なこだわりがある人間が、「こういうものをつくってやるんだ!」という意気込みを持ってつくったということだ。それは、「死ぬまでに自分の欲しいモノ、自分の信じるモノをつくって残そう」と決意して始めたライフワークの強みだったのかもしれない。

 

 私は彼にストレートに聞いてみた、「エアロコンセプトのイメージは、一体、どうやって菅野さんの頭の中でできあがっていったのですか?」と。すると菅野はこう答えた。「俺たちは、いつも航空機の内部パーツだとか、新幹線の内部パーツを眺めては、美しさを感じていたわけだよ。本当に美しいなぁってさ。それで、そういう精度の高い板金加工されたパーツを使って、持ち歩くものがあったら、俺自身が、ほしいなぁって思ったんだ」。これだけを聞くといかにも菅野が直感的な感性でモノづくりをしたように受け止めるだろう。しかしそれは大きな勘違いなのだ。やはり工業製品の製造に携わってきた人間だけのことはあり、菅野は非常に物事をロジカルにも考える。「エアロコンセプトの出発点になったのは、第一に菅野敬一が欲しいモノ、第二に菅野敬一がつくりたいモノ、だったんだ。それだけじゃないよ。オレはね、その方法についてもふたつばかし考えていたんだ。ひとつ目は、航空機構造体をヒントにしたカタチであること。ふたつ目は、精密板金加工を軸にした金属加工の持ち味で表現できるカタチさ」。なるほど、かなり左脳的な発想である。まず菅野は条件的に「死ぬまでにつくりたいモノ」を頭の中で整理した。所有したいモノでありながら同時に創造したいモノで、しかも自らの経験と技術を完全に注ぎ切れるモノ、である。しかし彼のユニークな点、捉え切れない点、真似できない点は、ここからの抽象の世界なのだ。「次に菅野敬一が欲しいモノの本質を考えてみたんだ。それを考えていくとね、それは"モノが出す音"だったり"モノに触れる感触"だったり、”優しさ”とか”思いやり”とか”潔さ”だったり”上品さ”や”長く生き残る価値”だったりするという地点に辿り着いたんだ。でもさ、それってプロダクトのカタチとは関係ない”想い”でしかないだろ? で、結局はさ、オレは”想いをカタチにする”ってことがしたかっただけだって、気がついたんだ。”想いをカタチする”っていう翻訳作業をずっとずっと繰り返した挙げ句、エアロコンセプトはできあがったんだよ」。

 

 つまり、エアロコンセプトには、菅野の「過去の記憶」や「生きてきた経験や見聞」が散りばめられ、埋め込まれているのだ。では、菅野のモノづくりの集大成であるエアロコンセプトは、どんな彼の断片からできあがっているというのか。私はもし人が何か情熱を持って仕事に取り組むのであれば、誰しも自分の経験や見聞や記憶といった類いのものを少なからずそこに注ぎ込むと思っていた。しかし、多くの場合、それは無意識的な反映で何が反映されているかなどと省みることはしないし、なかなかそれを認識できるものではないはずだ。しかし、菅野に驚かされるのは、彼自身が朧げでありつつも、エアロコンセプトに反映されるそれら幾つもの要素を確かに認識しているという点だった。菅野はエアロコンセプトをつくった頃のことを思い出しながら、熱くほどばしる想いを続けた。「カタチに変換される”想い”には、いろいろあると思うんだよな。渓流釣りで山を歩いた時の記憶だったりさ、焚き火の匂いやパチパチいう音だったりさ。もしかしたら大好きな夕焼け空かもしれない。それから、人間関係の中から知った思いやりや恩情とか、受けた親切とかそれにまつわる潔さもあるだろうな。旅の楽しみ、不便さ、道徳とか不良とか、洒落さとか野暮さとか、あらゆる過去の経験ってやつが、菅野敬一が欲しいモノを教えてくれるんだ。でもさ、この”想い”はさ、初期段階では物体としてのカタチにはなってないんだよ。頭の中にプカプカと漂っているだけなんだ。で、オレが”よし、一丁、自分の欲しいカバンをつくってやろう!”と考えたとすると、そういう要素からキーワードが集まってくるんだ。例えば、エアロコンセプトの”SlimPorter”というプロダクトは、うすっぺらでモノは必要以上に入らない、触り心地の良い接続部品によって精密に組み立てられた書類ケースになんだけどさ。"触り心地""上品さ”、”情景”、”洒落”と潔いったキーワードが浮かんで、それらを織り込んで完成したものだったんだ。だけど、ここでオレはイメージするのを止めないんだよ。そこからさらに、使い手によって凹まされたり歪められたり、傷つけられたり、革の色が経年で変わったりするところまで見ようとするんだ。要するに”未来のプロダクトの姿まで見据えて、頭の中での完成”へと持っていくんだ。」

 

 菅野の頭のなかには、最初から3次元のエアロコンセプトの映像が浮かんでいた。しかも、その映像は、モノが愛用され、へたっていく場面までを想定したものだ。それは、土門拳や名取洋之助、木村伊兵衛が「シャッター以前」という言葉で言い表したものに近いのかもしれない。「シャッター以前」という言葉は、写真家の間では当たり前のように使われている言葉で、本来写真家は何百カットも撮った中からいいものを選び出すのではなくて、最初に頭のなかにあるイメージに沿って被写体を探し当て、露出とシャッタースピードを調整するだけ、というものである。何を伝えるべきか、それは外に物質として現象化される前に、内に、つまり心の中にはっきりと描かれていなければならない。「シャッター以前」という言葉は、写真好きの菅野の口からも聞いたことがあった。だから、彼は恐らくはそういう作業をエアロコンセプトづくりの中にも、意識的にか無意識にか用いているのは間違いなかった。

 

 菅野と話して一番に感じることは、最初に映像化されるものにほとんどブレがないということである。菅野敬一というつくり手の想いが、つかい手である菅野敬一と寸分違わぬ形で結ばれて、はじめて作品は完成する。こういうブレのない作業を、いわゆる世にあるメーカーがその製作をしようと思ったら、一筋縄ではいかない。そこには営業マンがいて、マーケッターがいて、企画マンがいて、デザイナーがいて、プロモーション担当がいて、広報がいて、会社の取締役がいて、株主たちがいる。最初のビジョン、イメージがどこから出てくるかも企画にによって変わるのだろう。そして、その製作意図、テーマを研究開発、製作を通じて維持し、チーム全体で共有しなければならない。その上で、ビジョン、イメージにブレがなくなるというのは、まったく簡単なことではない。

「みんな、それぞれがそれぞにに欲しいものを言い合ったら、五目あんかけカレートマトソースステーキチャーハンになってしまうんだよ。みんなが食べたいものというのは、実は誰も食べたくないものなんだ。だから、渓水では、今までのところは、オレだけが欲しいものを考えて、それを形にすることを考えているんだ」。

 

 デザイナーやマーケッターやプロデューサーなど、大きなプロジェクトには必要不可欠の存在とされている人たちだ。もちろん、彼らのコミュニケーション能力や表現力、分析力は決して過小評価されるべきものではない。彼らがいるお陰で、それぞれの役割をそれぞれの人が効率良く進めることができるのだ。そして、彼らがいるお陰でクリエイションやクリエイティブと呼ばれるものでお金を市場から集めることができて、多くの人が生活を保障されるのだ。

 

 しかし、真剣にものづくりということを考えてみたときに、必ずいらない人材、余剰人員というものが出てくる。そして、彼らはプロジェクトに参加しているだけでは満足いかずに、口を出すことで存在をアピールしようとする。プロとしての意見が、いろいろな人の立場、観点から語られるわけだから、一見すればいろいろな角度から鍛えられれたプロダクトというものができあがりそうな気もするのだが、実際にそうなることはほとんどない。試しに、量販店の家電売場に行くとわかりやすいだろう。そこに並べられたものの中で、そこそこ欲しくなるものは沢山あるだろう、しかし借金してでも心底欲しいと思えるオブジェ、道具というのは案外少ない。帯に短し襷に長し。どれもこれも、何かが欠けてしまっているように映る。そこにつくり手の想いや哲学を感じる製品など、皆無に等しいのではないだろうか。たとえ源となるアイディアが素晴らしかったとしても、それが下流に、売場に近づくにつれて複数の人間による複数のイメージに薄められていってしまうのだ。多数決で決めたイメージなど、決して人の心の奥深くまでは届かないのだ。但し、現代という時代においては、多くの消費者たちは心の奥深くまで届く製品など求めてはいない。彼らは「とりあえずの普通に使えるものがあればいい」、そう考えている。確かに、それでいいのだ。求める機能さえあれば、何もこだわりの逸品を高いお金を出してまで買うことはないのだ。だから、だから多くの人は、五目あんかけカレートマトソースステーキチャーハンを注文し、マクドナルドを食べ、コカコーラを飲み、ユニクロを着て、無印の日用品に囲まれ、トヨタの車に乗って出かけていくのである。

 

 しかし、もし人が自分のしている仕事に、自分を、そして他者を感動させるような「何か」を込めたいと考えるのなら、ひとりイメージの力を鍛えなければいけない。菅野のつぶやきは私にそう教えてくれた。自らの「シャッター以前」を頭の中に、まずは、描き切らなければならないのだ。たとえ、それが孤独な作業であったとしても。