22世紀の成功哲学 〜 序章

 

 菅野敬一の成功は、今の時代には、世にも珍しい出来事である。好きなことを追求して、それを形にして、さらにそれを営みにしてしまったのだから。新種の成功と言える。「好きこそものの上手なれ」という諺はあるが、「好きこそものの上手なれ、そしてそれこそ生業なれ」となる確率は一体どのくらいのものであろうか? 菅野はそれを叶えた。本人さえ「ありえない」と思っていた夢を自らの手に入れた。そして、その快進撃は今日も続いている。その様子は、菅野のひとり語りでうかがい知ってもらえただろう。しかし、男の秘密については、まだまだ語る余地がある。どうしてか? それは男が堅気な職人であり、無粋なことを自らの口で語ろうとしないからだ。菅野は、この不可思議な現象を体現してきた人物である。しかし、それが何に起因し、何が現象化されたのか、彼は具体的には語らない。筆者は、菅野敬一に、約5年間伴走する形で、その血肉化された秘密を覗き見てきた。はて、それはどんな秘密か。その秘密は、この21世紀の今にこそ渇望されているものだと思う。

 

 21世紀、希望となるはずの世紀において、世界は明らかに何かを見失ってしまった。人類が科学技術や文明を進化させてきた結果、私たちは、明らかに何かを間違えてしまった。資本主義経済によってもたらされた物質的な豊かさは、現在において、明らかに曲がり角にさしかかっている。

 

 今、僕たちは、どこに向かおうとしているのだろう。僕たちは、何を想い、何を目指して生きていこうとしているのだろう。現在、生きている人たちの多くの頭の中身は、いまだにバブリーな価値観に冒されている。5年後、10年後も今と変らぬ生活基盤が僕らにあると疑わずに生きている。僕たちが「成功」という言葉を頭に想うとき、やはり、多くの人の頭に浮かぶのは、「経済的な成功」「高い地位を得ること」でしかない。それはそれで否定されるべきものではない。しかし、地球丸ごとを俯瞰してみたときに、そうした成功が立ち行かないものであることは、明らかなことだ。

 

 大量生産主義や高速回転主義に基づく成功が、21世紀に生きる私たちを支えて、恩恵をもたらしてくれているという事実には目をつむることはできない。しかし、現在の勢いのままに、それらの成功を追い求めていくことは、売上げ至上主義を追求していくことは、人類にとっては極めて危険なことである。だが、ひとりの人間として、ひとりの青年として、自らの未来や自らの幸福を見据えたときに、「経済的に生きるな」などということが、どうして言えるだろうか。やはり、生きていくことには、どうしても「お金」や「経済」という問題がまとわりつくのだ。そして、日常の中で酸素のごとく生活を支えてくれるお金というものを、無視することなどできるはずがないのだ。

 

 筆者の知人である舞台俳優は、30代後半に至った今も、ウェイターをしながら舞台稽古をこなし、有名になることを夢見ながら生活をしている。また、ある40代の知人も、今も映画監督になることを夢見ながら、フリーターとしての生活を送っている。かくいう筆者も同じく、様々なことを夢見ながら、社会的に見れば、情けないポジションに立つこともしばしば経験しききた。なるほど、確かに「職業者」としての夢を描くのは、素晴らしいことだし、それを諦めない人生を送っても欲しいし、自分自身もそうやって生きていきたい。しかし、夢というものはひとつではない。映画監督や作家になる夢がある傍らで、人間としてひと通りの経験をしたいと考えるのも、また、自然なことだろう。結婚をする。家族を持つ。親に恩返しをする。家を持つ。車を持つ。犬を飼う。友だちの結婚や誕生日を祝う。

 

 どれも極めてシンプルな、ごく当たり前の人生の行事だと思う。しかし、それらのすべては、「お金」というものから逃れることはできない。では、「ならば!」と、拝金主義の生き方だけに突き進むことが、我々にどれほどの生きる実感を与えてくれるのか。今という時代、「資本主義経済が異常な回転をする時代、バブリーな思考だけは膨張しながらも生活するのさえ十分なお金がまわらない時代」において、人々は迷っている。どう「成功」というものを捉えて、どう「成功」というものへの道のりを歩んでいけば良いのか。右肩上がりの時代ではない今、かつて憧れた偉い経済人たちに疑いの目を向ける輩も少なくない。彼らはと言えば、「ウチの企業はこれからどんどん業績をあげて、もっともっと大きくなるよ」と相変わらず、バブル経済復旧を前提にした発言を繰り返す。

 

 時代は既に新しい時の流れの中に突入している。しかし、僕たちの脳味噌には、ひと昔前の価値観、成功哲学だけが風呂場の垢のようにしぶとくこびりついて離れない。その大きな理由は、「新しい時代」に当てはまる「新しい成功のモデル」がほとんど全くと言って良いほど、見当たらないからだ。新しい時代に何をどう生きたら良いのか、「憧れるモデル」が存在しないし、もっと言えば、「使える考え方」や「使える技術」がないのだ。

 

 筆者がこの本を書こうと思ったのには、菅野敬一との出会い、そして5年にわたる彼との交流があった。彼は、心や魂を売ることなく成功に辿り着いた男だ。板金工から、エアロコンセプトというブランドを立ち上げた人物だ。それは、彼の言葉を読んでもらえれば、ご理解いただけるだろう。僕は、彼に十数回にわたるインタビューを行い、彼の話を本にしようと試行錯誤してきた。しかし何かが腑に落ちず、本としてまとめあげることが出来ないでいた。「このまま本にしたら、”ただの運が良かっただけの男の英雄談”か”生まれながら強いハートとセンスを備えていた男の成功談”にしかならない」と感じていたからだ。強者の独りよがりな哲学や自慢話など、聞いていて心踊るはずがない。社会的弱者を自負する者たちには、ただただ劣等感が自分の中に芽生え、膨らむばかりではないか。だから、もしかしたら、「本の完成は難しいかもしれない」とだいぶ書き進めたなかでも、僕は半ばあきらめの心理状態にあった。しかしあるとき、僕は書いたものをぼんやり読み返していて、ハッと気がついたのだった。そこには、”新しい職人の在り方”が存分に語られていたからだ。その内容には、職人という領域を超え、新しくも当たり前の知恵、温故知新の生きのびる成功哲学が詰まっていた。彼の生き様や彼の考え方を、単なる英雄物語としてではなくて、ひとつの、類まれな成功事例として、彼のエッセンスが抽出できたとしたら、それは「使える考え方」や「使える技術」になりえる、僕はそう思い至ったのである。つまり本書は、菅野も筆者も普段毛嫌いしている類の本だ。ひとことで言えばハウトゥ本なのだ。自己啓発本と言っても良い。しかし、これは同時に彼の伝記でもあり、ひとりの貴重な魂の貴重な記録、ドキュメンタリーでもある。

 

 菅野敬一は、資本主義という仕組みを心の底では嫌っている。しかし菅野は、その資本主義の土俵の流れの中に生き、妻、子供、そして社員たちを養う状態の中で夢を追いかけ、尚かつ魂や心を売らずに成功をおさめるという地平に立った。お金に媚びる姿勢を見せずに成功を手にした。しかも彼は、日々を楽しみ格好をつけながら、泥臭い、男臭いスタンスを貫きながら成功した。さて、それでは、その成功はどうやってもたらされたものなのか?

 

 この本は必死な本である。若い人たちがどう成功に向かって、生きていくべきか。自分自身がどう成功に向かって生きていくべきかを、真剣に考えた本だ。キレイごとだけではなく、楽屋も含めて書いた本だ。筆者としては、この本が美談ばかりを収録した英雄談の本ではなく、読者にとって実用的な技術書になってほしいと祈りながら書いた本だ。

 

 ここ先には、絶対に菅野が自らは語ろうとしないことを書く。菅野敬一という職人が、どうエアロコンセプトを成功に導いたのか。その「秘密」を書いた。それは、これからの時代の数ある成功の最も先進的で普遍的なシンボルとなりえるものだと確信する。しかしだからと言って、本書を誰にとってもしっくりくる「使える」書物であることは保証しない。だが少なくとも、この文字の記録は、好きなことで食べていこうとする人には、読む価値がある。「新しい成功」を体現した、極めて稀な男の生き方は、長い時間をかけて抽出したものだ。男の魂のエキスと言ってもいい。きっと、これを読む幾人かの魂には感染する、僕はそう信じる。

 

 筆無精な文筆家であったことが功を奏して、長い時間のなか、菅野との間に独特な関係が生まれ、私にしか見せなかっただろう彼の素顔が記録できたのかもしれない。もしこの章に至ることなく、この本の執筆が頓挫していたら、彼は水面下で漕ぎ続けている自らの水かきや努力、その素顔は誰にも見せることはなかっただろう。その代わり、彼なりの格好の良さ、「格好つけた格好悪さ」のようなものを、それまでもそうだったように、テレビや雑誌にさらしていたはずだ。菅野敬一というのは、そういう男なのだ。でも、ここでは違う。彼がどうして成功できたのか、その秘密を記したい。