捨て身になる

 

 

「売 るためにつくられた製品」と「発案者自らが欲しいからつくった製品」。この間には、大きな隔たりがある。前者に情熱があるとすれば、「どうすれば、より沢 山の他人に気に入ってもらえるものになるか」に焦点を当てた情熱だ。対して後者の方は、「どうすれば、自分が満足するか」に焦点を定めた情熱である。どち らも真剣に「どうすれば」ということを突き詰めていく。しかし、対話する相手は必然的に異なってくる。片や、顔の見えない何千、何万という人々を、生活ス タイルや年齢層、性別、趣味などで分類して、数値や感想を集められるだけ集め、好みを聞き出す。これに対して、後者は、誰が何と言おうが関係ない。自分自 身に対峙して、自分自身の究極の好みを彫り出していく。



 

  もちろん、菅野が行っている物語は、後者の方である。筆者が菅野と出会ったばかりの頃、彼は、マーケティングやブランディングというモノを売る手法に対し て、非常に批判的かつ懐疑的な姿勢を崩さなかった。そんな彼が、数年の時を経て、考えを変容させていた。それは、彼がするようになったこんな言葉に表され ていた。「大企業が、大勢の従業員を抱えていたら、売れるためにどうするか、その方法論を求めるのは仕方ないよね。だって、売らなきゃその従業員の胃袋を 満たすことができないんだろ。大企業の胃袋ってのは、でかいんだからさ。そんな大企業から、俺みたいな職人に、”どうしたら売れますか?”なんて聞かれ たって、答えようがないんだよな」。

 

 

 

  菅野のもとには、様々な人々が訪れる。エアロコンセプトとビジネスを構築しようとするビジネスマンもいれば、人生相談に訪れる市井の人もいるし、テレビな どでドキュメントされた菅野をみて、感動のあまり連絡をとり、工場に押しかける人もいる。しかし、なかでも多いのは、菅野が「どうやったのか?」という秘 密を得ようとして訪れるつくり手たちだろう。彼らは、いわば、プロフェッショナルだ。企業のデザイン部の人間もいれば、伝統工芸品をつくる小さな工房の職 人もいる。彼らは、この不況が慢性化した国のなかで、藁をもすがる想いで菅野を訪ねるのだ。

 

 

 

  かつて菅野は、そうした相手に対して、自らのモノづくりに対しての持論を展開していた。それは、この本のなかでも取り上げている通りのことで、多数決方式 に好みが織り交ぜられたものをつくったら、それは、結局、誰も欲しいものにはならない、という持論だ。しかし、あまりにも数多くのモノづくりに対する「ハ ウトゥ」を問われ、菅野の言葉は変わった。「しょうがないよね。だって、大きな胃袋を満たさないといけないんだろうからさ」。しかし、この言葉が出てくる ようになった背景には、ひとつの気づきが菅野のなかにはあったようだ。「俺さ、最近、つくづく思うんだよ。どんな企業の何様だか知らねぇけどさ。”感性” がどうだ、”情熱”がどうだ、って偉そうなことをいくら論理的に話したってさ、窓の外に浮かぶ夕焼けに感動できないような人間に何を話したってわかりゃし ないんだって」。この言葉には、自分というつくり手と他のつくり手の間に、大きな感覚的な溝があるということに気がついたことを意味している。そして、彼 は、自らの感性が少し人と異なったものなのだ、ということにも気がついたのかもしれない。

 

 

 

 あるとき、菅野のもとに、ひとりの職人が訪ねてきた。職人は、まだ30代 中頃の若い職人だが、日本の伝統的な工芸品の世界では、様々な賞を受賞してきた実力派であった。その彼が、菅野の元を訪れた理由はシンプルだった。「菅野 のようにモノづくりにおいて成功するためにはどうしたらいいのか?」という問いである。「私は、自分の好きなモノづくりを追求することもしました。しか し、それでは結果が出ず、先輩には、”自分の好きなモノづくりだけをやっていたんじゃ、モノは売れない。相手が何を欲しいかを考えなきゃ駄目なんだ”とた しなめられるんです。菅野さんみたいに、自分のつくったモノで、生計を潤し、そのモノを世界に届けるには、どうしたらいいのでしょう?」。これは、非常に 切実な問いであった。菅野がこの問いに対して言った言葉は、「世間で常識だと思われていることは、必ずしも常識じゃないだよ。だから、自分の信じているこ とがあれば、それを一生懸命やったらいいんだよ」というものだった。しかし、彼は、こうも付け足した、「でも、それをやるのに一番いいのは、捨て身になっ ちゃうことだよ。これさえやれればいい、そういうものを見つけて、突き進めばいいんだよ」と。しかし、実のところ、これにはさらに裏で付け加えられた言葉 があった。「捨て身になっちゃえばいいよね、なんて簡単言ったって、普通のひとには、そんなことなかなかできるもんじゃないよな。奴さんには、養っていか なきゃいけない従業員もいるんだろうしさ。」と菅野はひとりごとのように言ったのだ。

 

 

 

  捨て身になると言えば、それは大変に格好いい言葉として響くかもしれない。しかし、実際にそれをやれる人が、この日本にどれだけの数いるのだろうか? 家族も仲間もすべてを自分の夢のために巻き込むことになる。失敗すれば、それはとんだ愚行として、謗られる対象にだってなりうる。それでも、菅野はなりふ り構うことなく、自分の信じるモノづくりを行った。自分の心に浮かびあがる自分の欲しいものをみつめてつくり続けた。それも、尋常じゃない数と種類を、た だひたすらにつくり続けたのだ。当時、まだ零細企業の社長でもあった人間が、どんなことよりも時間と情熱を傾けたのが、エアロコンセプトづくりだったの だ。そして、その原動力になっていたのは、「自分が純粋につくりたいモノで生活をしたい」、でも「金儲けをしたい」でもなかった。ただひたすらに、「自分 が職人として、創り手として、生きた証としてのモノづくりをしたい」ということだけだったのだ。

 

 

 

  菅野がどれだけ捨て身だったのか。その度合いを確かめる術はない。しかし、彼自身は、自分自身を捨て身であったと認識していた。「俺は、家族もいれば、 養っていかなきゃいけない仲間だって、ずっといるんだ。だけどさ、俺、思ったんだよ。俺のワガママにちょっと付き合ってくれよ。俺と一緒にきてくれよって さ。一応はさ、小さくても、組織の長である人間がそんなことを言うんだから、相当、ワガママなことだよな。でも、俺には、それができちゃったんだよ。だけ どさ、これを他の人に真似してみなよ、なんてとても言えないよ。」。

 

 

 

  実は、筆者も、菅野の成功の秘密に対しては、誰よりも大きな興味を持っていた。どうすれば、小さなところから、大きな成功が得られるのか? しかし、彼をドキュメントしていくうちに気がつかされたことは、彼のように覚悟を決めるためには、そのための相当な覚悟、つまり覚悟のための覚悟が必要 だ、ということだった。わかりやすく言えば、凡人からしてみたら、遠い遠い感覚での覚悟が菅野のなかには芽生えていて、その覚悟が彼を想像もしなかった目 眩く世界へと導いたのだった。実は、筆者も、菅野から捨て身の勧め、非常識の勧めを受けたことがある。このアドバイスに対して、「でも、菅野さん、そうは 言ってみても、私だって家族は持ちたいですし、家だって欲しいですし、車だって乗りたいじゃないですか」といささか反抗的ことを言ったことがあった。しか し、菅野は、「普通はそうだよな。でも、俺はさ、あなたと違って、ひとりじゃなかったんだよ。それでも、捨て身をやった。それだけなんだよな。」。つまり は、捨て身になって、打ち込めるかどうか。その先にしか、菅野のような成功への答えはない。ほとんどこれは、自殺に等しい行為で、これをすることは、冷静 な精神状態にある菅野には、とても人に勧められたものではない、とよくわかっているのだ。

 

 

 

  では、菅野のいう捨て身は、本当に誰にも真似ができないものなのか? それは決してそうじゃないと、筆者は感じている。それは、菅野が会社の存在や、家族の存在を犠牲にしてまで、自分の夢に時間と情熱を費やした裏側を眺め ると見えてくるのだ。どういうことかと言うと、菅野という人間は、無責任そうに自由気ままに生きている風に見えて、実は、誰よりも仲間を愛しているし、 家族を、子どもたちを、奥さんを愛しているし、彼らに対する責任感を携えている。そんな彼が、みすみす自分の大切にする人たちを死なすわけがないのであ る。彼は、「捨て身」という急角度の前傾姿勢は取りながらも、最後の保険だけは首の皮一枚だけ、ずっと繋いでいたのだった。それは何か? そう、それが、「下請け」という仕事だったのである。 菅野は、自分の好きなことを探求しながらも、食い扶持だけは、確保していた。元請けの会社にどんなに罵詈雑言を吐かれようとも、その手綱は、最後の最後ま で放すことはしなかった。あるとき、菅野は、組織を導くことをこんな風に話していた。「俺がリーダーになって、山の頂上まで登るとするだろう。でもさ、途 中で、ヘリコプターで乗っけていってくれるとしても、そんなものに簡単に乗ってはいけないんだ。みんなで一緒に苦労して、一歩一歩、登りつめていくんだ。 途中で川が出てきたら、よしいいか、みんな、一緒にジャンプするぞ。俺と一緒に飛べば大丈夫だからな。ほら、今だ、よし、飛べ。ほら、俺の言った通りだ ろ。うまくいっただろ。今度、あそこの橋わたるからな。ほら、いいか、ひとりずつだぞ。よし、いけ。ほら、みんな、渡れただろ。俺の言った通りじゃない か。ってな具合にな、みんなで、ちょっとずつ、登りつめていくんだよ。」。

 

 

 

  つまり、菅野の捨て身というのは、リーダーとしての責任を背負いながら、一歩一歩、群れを導いていく。それでいて、独創的な世界にひとり浸り、夢を追いか けていく、ということなのかもしれない。それは例えるのなら、群れのために大きな肉を口にくわえ引きずりながら、自分のためのさらに大きな獲物を狙う狼の ようなものである。簡単なことではない。しかし、「食い扶持を保持しながら、己を追求する」とシンプルに書けば、少しは真似できそうな気にもなってくる。

 

し かし、この「捨て身」という気持ちに関しては、菅野にも非常に錯綜し渦巻く想いがある。それは、彼の口から出る「俺だって、生まれたときから捨て身じゃ ねぇよ」という言葉に滲む。では、いつどこで捨て身になったのか? どうしたら捨て身になれたのか? 多くの人が抱く疑問、筆者が放った疑問に対して、彼の答えはこうだった。「嫌いなハウツーを説くつもりはねぇよ。だからって、”夕焼け空は媚びを売らずに 捨て身で輝くから”なんて言ったら”フザケんじゃねーぞ!”ってなっちゃうだろ? 捨て身を言葉で説明するのは、ちょっと難しいかな。 つまり俺にとっての”捨て身”っていうのは、”本気”ということなんだよ。”本気”というのは、人生観と深く関係していて、生まれた環境、親や友人、遊び や教育、いろんな過去が関係していて、多くの体験から生まれてきたものなんだ。そうだな、”本気”になれる瞬間っていうのは、心の底から”命に限りがある ことを感じたとき”、”自分自身と向き合えたとき”、”自分の知っている常識や社会の常識の中に答えが見つからなかったとき”、”生きる価値感について考 えたとき”、”自分が好きなこと、嫌いなことを知ったとき”なんだよな。だから、一番いいのは、比べてみたらいいんだよ。給料、昇進、学歴、預金とか、 「世間」がいいって言っていることと、「自分自身」が本気でいいって感じていることをさ。自分自身とたったふたりで向き合えたら、そりゃあ、誰だって、本 気になるし、捨て身になれるって、俺はそう思うんだよな」。死を覚悟し、捨て身となった菅野が放つ言葉を聞いて、多くの人は、考えるだろう。自分は、本当 の自分自身と向き合ったことがあっただろうか? 本気になったことがあっただろうか? と。そして、菅野の方はと言えば、今日も彼の捨て身は、続いているのだ。