演出する

 

 

 菅野の名刺には「職人」という肩書きがしるされている。代表取締役社長でもなく、CEOでもなく、クリエイティブディレクターでもなく、職人である。そして、菅野の口癖は「オレはただの職人だからさ」である。それに菅野は、よくこんなことも口にする。「オレみたいな馬鹿には、よく分かりませんよ」と。はじめて会うと、文字通りに受け取るかもしれない。しかし、私は、これが彼の本音であると同時に彼の「粋の精神」のあらわれであると感じている。彼は、そう言うことで、余計な知性や余分な有名性に振り回されないように自らの心をガードしている。言い方を変えれば、自らの心の声にずっと耳を澄ませているとも言える。と同時に、これは、彼流の演出なのではないか、と踏んでいるのだ。「腕っこきの職人」というのは、彼にしてみれば、憧れの存在である。一般の人が、スポーツ選手や歌手、または医者、弁護士、政治家などに憧れるのと同じように、彼にとっては永遠の憧れが究極の腕っこき職人ということになる。もちろん、既に彼は、「腕っこきの職人」の領域にいる。しかし、それでも「腕きき職人というのには終わりがないんだ」と日頃から口にしているように、その道はどこまでも続き、究極の腕ききの職人は、今でも彼の憧れであり続ける。だから、彼が「オレはただの職人だからさ」と言うときには、「職人であることのプライド」と「職人であることへの幼い頃からの憧れの気持ち」、そしてそれを理解できず「下請けとしてしか職人を扱うことのできない世間への怒りの念」が混じっている。探求者としての誇り、俗世に対する反抗心。彼は、それらを名刺の上の「職人」という2文字であらわしているのだ。世にも風変わりな演出ではあるが、彼にとっては、この演出が大事なことなのではないか。なぜなら菅野は、自分の好みを究極にまで研ぎすませて表現したい人物なのだ。だから、どうやったら自分の好みを「時間」と「空間」というキャンバスの上に表現できるかに心を砕く。つまり、自らの脳に沸き上がるイマジネーションで演出をするのだ、というのが私の推論である。

 

 ただの推論か、と思われる読者もいるかもしれないが、これには、まんざら論拠がないわけではない。彼が希代の演出家であることは、彼の日頃の様子からだけでは、なかなか気がつけないだろう。かくいう私自身も、「彼には、演出家的要素があるのではないか?」と疑い出したのは、ずっと後になってからだ。あるお話会に彼をスピーカーとして招くまでは、彼の流儀らしきものに全く気がつけなかった。そのお話会とは、私が仕事のお手伝いをしていた会社の講演会のようなものであった。その会社は、金融系のベンチャー企業でありながら、会社立ち上げ時の勢いを失っており、「本物」の人の話を聞くことで、何とか士気をあげようともがいていた。私は、この話会に最も相応しい人として、菅野を招けないかと考えた。そして、彼の「講演しない主義」を特別に取り下げてもらい、出向いてもらうことになったのだった。

 

 職人、菅野のことである、ぶっきらぼうに、右も左もわからずに、着の身着のままで当日を迎えるのではないか。当初、私はそう予想していた。だから、彼を盛り立てるためには、迎え入れるこちら側でいろいろ段取りを済ませておかなければならないだろう。そう覚悟を決めていたのだ。ところが、これが少々、見当違いだったのである。話の内容に関してこそ、彼は「煮るなり焼くなり好きにしてよ。どんな質問してくれてもいいからさ」という、いつものような太っ腹な姿勢を見せてくれた。これに対して、私は、タイムスケジュールと質問表を作成し送付し、会社にあるもっとも大きな会議室を使うこと、参加者は7080人にのぼるを知らせた。すると、彼は、こう返してきたのだ、「ねぇ、当日、エアロコンセプトの鞄をディスプレイしたいんだけど、会場には、そのためのスペースはある?」と。私は、「えっ、オープンなイベントではないただの社内イベントなのに、ディスプレイ?」と思ったのだが、「ああ、もちろん、あると思いますよ。」と答えた。菅野は「じゃあ悪いんだけどさ、いくつか製品を持っていくからさ、そのスペース、どこか目立つところにとっておいてよ」と言った。なるほど、どんな規模であれ聴衆が現物を手に取れるのは、確かに素晴らしいことだ。では、ディスプレイ用のスペースを取っておこう、そう感じた私は、「わかりました」と返事をした。すると、今度は、「あとさ、会場の雰囲気を寺小屋みたいに仕立てられないかな?オレさ、講演会は嫌だけど、寺小屋みたいなのだったらいいかなって考えたんだよ」とリクエストをしてきたのだ。「寺小屋?」、私の頭は少し混乱していたが、この特別なスピーカーのためには考えなければならなかった。「そうだよな。普通の講演会なんて、菅野さんらしくもないからな」と。それで、私はゴザを敷いてみんなを座らせるという妙案を何とか思いついたのだった。「菅野さん、ゴザで寺小屋みたいな雰囲気がつくれそうですよ。参加者もすごく興味を持っているみたいです。後は、当日です。どうぞよろしくお願いします!」。頭のなかで完璧なシミュレーションを済ませていた私は、自信満々に菅野に言い放っていた。菅野も、受話器の向こうで喜んでくれているようだった。「そうか。良かった。あっ、でもさ。もうひとつだけ、お願いがあるんだけど…」。「えっ、他に何か話をしておくべきことってあったかな?」私がそう思っていると、彼は照れくさそうにこう言ってきた。「ぜんぶの話しが終わってさ、オレが立って退出するときのエンディングテーマとして、竹内まりやの”元気を出して”をかけて欲しいんだ。オレ、あの詩が素晴らしいと思っていて、大好きだしさ。話の中には、挫折や諦めや苦しいときのことも実話として飛び出してくると思うんだよね。そういうのをこの曲が最後に締めくくってくれたら、話を総括できると思うんだよ。」。私は耳を疑った、「エ、エンディングテーマッ!職人さんが、そんなことまで考えてくれるものなのか!」と。もちろん、私は彼のこのリクエストに賛成したが、まさか、職人である菅野にそんな演出をリクエストをされると思ってもみなかった。しかし同時に、菅野の全体を見通す力に対して、感服する想いを抱かざるを得なかった。普通、それまで一回もやったことがない講演をやるにあたって、ディスプレイや空間構成、そしてその会のエンディングテーマまで、イメージする講演者はいないだろう。しかし、演出家としての菅野は、それだけに止まらなかった。講演前、エアロコンセプトのディスプレイを自らの手で積み上げて、見た目に格好よく設えたばかりか、講演中、彼は、もうひとつ別に大切そうに持ってきていたエアロコンセプトの鞄を取り出した。そして、「今回のこの講演会を開いてくれたスズキさん、アンタに贈り物があるんだ。」と私を呼ぶと、その鞄を私にくれたのだった。私は畏れ多いと思いながらも、場の空気を壊さないように、ありがたくその高価なエアロコンセプトを受け取ると、みんなに見えるように高々と持ち上げた。すると、菅野は「良かったら、みんなにエアロコンセプトの中も見せてやってよ。」と言うのだ。「中? どうしてだろう?」と思いつつも、言われるがままに中を開けてみると、中からは、彩り豊かなイエローの色が目に飛び込んできた。なんと、エアロコンセプトの鞄の中に、17本のチューリップの黄色い花が並べられているのだ。会場には、どよめきとともに、温かい微笑みが広がっていた。もちろん私は、そんなプレゼントを男の人からされ照れてしまっていた。彼は、「こういうお花はさ、男の人にやるもんじゃないかもしれないけどさ。あなたと話しに来たんですよって、その気持ちを伝えたかったんです」と公衆の前で語った。彼は、いつも自分で自分を指して言うような「馬鹿」ではない。それどころか、相当にスマートだ。彼は「自分が自分の観客であったら何が見たいのか?」「自分自身やエアロコンセプトをどう見られたいのか」をつきつめて考えることができるのだ。そして、その全体を見通す訓練を通じて、「どうしたら格好いい自分やエアロコンセプトができあがるか」を演出できるのだと思う。

 

 講演中、菅野はこんなことを言っていた。「人が格好をつけるっていうことは、私は、大事なことだと思っているんです。格好いいってことが人間を人間として高めると、私はこう思うんです」と。なるほど、確かにその通りである。「格好をつける」というのは、とかくネガティブな意味で使われがちだ。しかし、彼は、そこに人間としての礼や人間としての成長をみているようだった。考えてみれば、格好をつけるというのは、自分に対しての客観性を持つ行為であり、相手を喜ばせるということにもなり得る行為でもある。だらしないまま、とか、薄汚い格好よりは、格好をつけてくれている方が、一緒にいる側としては、ずっと清々しい。私は、自らの目で垣間みた、菅野の「格好をつける」とか「演出をする」という姿勢の中にエアロコンセプトの成功の秘密をみていた。菅野は、「エアロコンセプトがどうみられるか」「エアロコンセプトがどう使われるか」についてを、徹底的に考えて抜いている。そして、その頭の中のシミュレーションの中で登場するユーザーは、菅野自身である。だから、エアロコンセプトは、菅野がユーザーだったらということを軸に徹底的に演出されている、はずなのである。いわば作者自身が作者を喜ばせるためのプロダクトであるから、手抜きがないというわけだ。菅野のように自分自身の声を大切にしている人間にとって、自分で自分に嘘をつくことなどできるはずがないのだ。

 

 アマチュアながら写真も上手な菅野と写真の善し悪しについてを語らったことがある。そのとき、彼はこう語っていた、「オレは、写真の上手い人は、演出センスが際立っていると感じるんだ。演出のセンスっていうのは写真家のバックグラウンドってことだよ。どう生きてきたか、何を観てどう感じてきたか、何が大切なのか、自分を信じているのかいないのか。それが一枚の写真にあらわれてくるんだ。演出というのは、物事の核心を成す”概念”を説明する一番の表現行為なんだよ。"悲しみ""喜び""格好良さ""大切さ""静寂"、こんな概念を一枚の写真で表現してわかりやすく伝えようと思えば、”上質の演出”というものが重要になるのさ」と。これは、写真についての話であったが、同じことはきっとエアロコンセプトのモノづくりやコトづくりにも当てはまることなのではないだろうか?

例えば、カバンが必要以上に薄いのも、経年変化によって革や金属についていく傷や劣化も、「壊れたら修理しますから、長く使ってください」と言う菅野の言葉も、使い手がモノに込める愛情や潔さや信頼といった概念を演出によって理解しやすくしているのではないだろうか?

「格好をつける」「演出をする」、これらの言葉が意味することは、「自分自身の考えやセンスをまとめて体裁を整える」ということだ。「自分が相手の立場だったらどう感じるか、どう考えるか? どう受け取るか?」、そのことを考え抜き「格好をつけて」「演出する」ことは、「おもてなし」にも通じる、むしろ思いやりのある行為だ。エアロコンセプトは、プロダクトデザイン、グラフィックデザイン、ホームページづくり、加工、出荷、販売方法まで、菅野の好みの演出でまとめあげられている。菅野の究極の「格好つけ」の美学が、エアロコンセプトには散りばめられているのだ。これは、推測などではなく観察を続けてきた中で知った客観的事実だ。その一連の流れのなかには、菅野がどう生きてきたか、何を観てどう感じてきたか、何が大切なのか、自分を信じているのかいないのか、まぎれもない菅野の想いが込められているのだ。私はうっすらとではありながら、「格好をつける」ということや「演出をする」ということが、菅野の成功を語る上ではずすことのできない点であることに気がつきはじめていた。

 

 さて、菅野の講演の出来映えはと言えば、素晴らしいものだった。会社のスタッフたちは一同に彼の話と演出に感動していた。しかし、私は、彼の華々しくも示唆に富んだ講演も、彼の「考え抜く」「格好をつける」「演出をする」という努力によって支えられているのだと感じられたことの方に喜びを感じていた。その講演終了後、彼は持参していたいくつかのエアロコンセプトの鞄を白塗りの業務用バンに積み込むと、いつもの気さくな笑顔を残して、「じゃあ、また連絡するよ。どうもありがとうね」とだけ言い残して帰っていった。格好をつけるという遊びをしながらも、まったく格好つけたところがない男。気さくでありながらも、演出ができる男。菅野は、その両面の異なる性質で人々を魅了する。この日の講演後、参加した聴衆からは、こんな声があがっていた。「あの人、絶対、女の子にもてるよね」「いやあ、大した人だ。一部上場企業のお偉いさんなんかでも、あの人には人間としては足下にも及ばないな」と。彼の人間力とでも言える力は、直接、彼の演出力とは関係ないのかもしれない。しかし、菅野という存在を通じて成功を考えるのなら、この一点は知っておかなければならない大切な点だと思う。演出をし格好をつけるというプロセスを本当に彼が意識してしているかどうかは、わからない。聞いても彼ははぐらかして答えてくれないのだ。しかし、私が感じた限りにおいては、彼は「演出力」と呼べるものに限りなく近いものを持ち合わせている。そして、その演出力が彼自身もエアロコンセプトも磨きあげ高めている。「演出力」とは、「努力」とも「研鑽力」とも言い換えることができる。私が言いたいのは、もし彼に憧れたとして、彼がとぼけたユニークな回答をしていたとしても、その下には人知れぬ努力や意図、メッセージが隠されているのだ、ということだ。