行為をみる

 

 

 エアロコンセプトが様々な人を引寄せるということについては、既に触れた。でも、その磁力がどこから生まれてくるものなのかは、菅野の思考と行動から探る以外、明白にはならない。まっすぐに問えば、はぐらかされるか、照れ隠しの答えをえるか、演出の中に煙にまかれる。しかし、エアロコンセプトが人々の目を引くのは、ただデザインが美しいという理由からだけではないことだけは間違いない。エアロコンセプトが目立つ、もう一つの理由は、「行為」の中にある。つまり、使い手の「作法」とも「振る舞い」とも「仕草」とも言えるものを引き立てる機能をその美しさの中に含んでいるから、エアロコンセプトは目立つつのだ。「人間が主人公じゃない道具が、オレは嫌いなんだよ」。菅野がそう言っていたのを私は聞いたことがある。そして、菅野は、こうも語っていた。「人間の体の動きというのは観察していると、素晴らしいんだよ。それが、スポーツ選手でもお花の先生でもウエイトレスでも八百屋のオジさんでも、何であれ、物事に熟達した人間の行為は、手や指先や足の運びや目配りなど、全ての動きが感動的なんだ。そんな素晴らしい動きや行為ができる人間に、お供をする存在が道具なんだよ。その道具をつくるんだ。いくらモノ言わぬ存在が道具であったとしても人間の動きと連動を考えるのは当たり前のことさ。優美な手の動きを導くようなカードケースとか颯爽とした歩幅を導くようなアタッシェケース、そういうモノこそオレがつくりたいものなんだよ。そして、それをつくる職人自身もやっぱり自らの行為を美しくなるように磨いていかないとな」。こうした発言から、菅野が「人の行為」というものに対して、並々ならぬ関心を抱いていることを知ることができる。

 

 菅野は「エアロコンセプトのどんな点にこだわったのか?」という問いに対して、こんな風に答える。「例えば、この鞄は、開けるときにカチッという深い音がするでしょ?

この音をつくるには半年の時間がかかったんだよ。これは、バルナック型ライカの3Fという機種のシャッター音に少しでも近づけたかったから工夫に工夫を重ねたんだ」と。自分が鞄を開けるシーンを想像し、そのときにあの重厚なライカのシャッター音のような音が鳴ったら、どれだけ「開ける」という行為が祝福されているように感じられるだろうか?

どれだけ鞄を開けるのが嬉しくなるだろうか? これは行為のデザインとも呼べる種類の設計である。

 

 また、菅野は、「愛の杖」というシリーズも手掛けている。この製品群もエアロコンセプトと同様に、菅野自身の実体験から生まれたものであった。そう、菅野は趣味であったスキーをしているときに、左足を粉砕骨折するという大怪我を負ったことがあるのだ。けい骨の頭をばらばらに砕いてしまって、大きい靭帯だけは残ったものの軟骨が半分しか残っていないという酷い状況だった。現在も20センチほどのチタンプレート2枚を12本のボルトで挟んでおり、入院当初には、医者に「自力で歩けるようになるかどうか分からない」とまで言われたのだという。それを、2年間のリハビリで何とか筋力をつけ、日常生活が普通に送れるまでに回復したのは、菅野の執念のたまものなのかもしれない。こういうのを怪我の功名と言うのだろうか。「愛の杖」は、「何て不愉快な使い心地の杖なんだろう?」という、菅野にあてがわれた市販の杖への不満が原動力となって製作されたものだった。この杖に彼が込めたのは、「かっこよさ」「優しさ」、「触り心地」、そして「掴み心地」である。それは、言い換えれば、美しい道具、コミュニケーション・ツール、そして行為のための日用品ということになる。この愛の杖の素材には、もちろん菅野の工場が得意とするアルミ素材が用いられている。ヘッド形状は風変わりで、「飛行機のような形」や「クマちゃんのような形」や「ミッキーマウスのような形」に美しく象られている。そして、使い方は、通常の杖と異なり、上からガッチリとわし掴みできる形になっている。

 

「オレさ、世界中の杖を調べてみたんだよ。でもさ、どこの杖も真上から”わし掴み”できるような杖がないんだよ。ユニバーサルデザインだとか何だとかって言ってる割りには、樹脂製のグリップ形状は手の位置が固定されちゃって動きが取れない。それで、手の大きさがちょっとでも違おうものなら、もうそれは、"寝返りせず朝までねていろ!"と言わんばかりの窮屈さなんだ(笑)。だから、オレ、我慢できなくなっちゃって、手に持ってみながら試作を繰り返して数種類の杖をつくったというわけさ」。

 

「愛の杖」などとプロダクト名を聞くと、ふざけてつくったものなのだろうかと疑いたくもなってしまうが、彼はいたって真剣で、行為についての熟考を繰り返し、ようやく完成へとこぎ着けたモノなのである。そして、彼がつくるプロダクトには、必ずと言って良いほど、「美しい行為」が織り込まれているのだ。

 

 菅野がつくったプロダクトで、行為を意識したものがもうひとつある。それはカウボーイの鞍掛けを模した皮のフックが付いた鞄「ポータージャケット」である。「カウボーイが旅に行く前に、鞍をかける仕草があるだろ。あれがとてもカッコイイんだよ。あの仕草が好きでね。オレは、この鞄を持って出かけるときには、カウボーイが気を引き締めて出ていく感じを忘れたくないんだよな」と言いながら、菅野は皮のフックをグイッと引っ張る仕草を目の前で見せてくれた。そして、その仕草がとてつもなく格好いい。しかし、この鞄については、毎度似たような質問を受けるという。それは、「これはカバンの中身を取り出せないので不便ですね?」というものだ。というのも、この製品は、「鞄の上から革製の荷室をかける」といったシンプルな構造で設計されているため、荷室をかけるとカバンのフタは開かなくなってしまうのだ。しかし、この問いに対しての菅野の答えは決まっている。「オレがつくってみたかったのは、便利な鞄ではなくて"旅にでるサイン"とか"旅から戻ったサイン”を心に刻める鞄というものだったんだ。出張にしても旅行にしても、旅というものには、いろいろな心の記憶がついてまわるだろ。”出発する時の未知の予感”とか”戻った時に思い起こす移動した距離や時間や人との出会い”とかさ。まあ、この鞄の”荷室”は、旅のはじまりと終わりの句読点みたいなもんだな。鞄に鞍をかける、鞄から鞍を外す仕草、その面倒臭さがいいんだよ。だって、荷室をかけながらも鞄のフタが開く構造ならば、つくろうと思えば簡単にできちゃうんだからさ。だけど、そんな便利一辺倒なのは、オレ嫌なんだよ。面倒なんだけど、それをすると気持ちが高まったり整ったりする仕草というものがあるだろ?そういうのが大切なんだよ」。菅野敬一は、「便利さ」というものをあえて禁じ手にすることで美しさや豊かさを創り出そうとしているのだ。もっと言えば、人間という行為する動物をより美しいものへと高めようとしている。

 

 明らかに菅野は、人の行為、振る舞い、仕草というものを観察し、ものづくりに反映する達人である。と同時に、自身も緩急のついた力強く確かな動き、行為、振る舞い、仕草をみせる。彼を見ていると、動きに大きな無駄がないように感じるのだ。それがどこからくるものなのかはわからない。恐らく、彼の職人としての修行や趣味であるスキー、渓流釣り、キノコ採りなど、日々を通じて磨かれてきたものなのだろう。エアロコンセプトのみならず、彼自身が人間として多くの人や運を引寄せる一つの要因として、彼の行為の仕方や振る舞いや仕草というものが関連しているのではないか、とさえみることができる。例えば、彼が運転する車に乗っていると、まったく不安を感じない。それは、彼が車の運転が上手いと知っているからではなくて、彼の動きに迷いと無駄がないから、その運転ぶりを観ていて安心を感じるのだ。また、彼と食事を共にしているときに、大皿から小皿へと取り分けてくれる彼の手つきは、極めて洗練された美を感じる動作をする。

 

 ここまで言うと、少々、大げさとのきらいもあるが、彼自身が大ファンである往年の名ダンサー、フレッド・アステアは、彼の行為やエアロコンセプトを持つ人間のとる行為を観て、どう感じるのだろうか。種類や方向性こそ違えど、「行為」「振舞」「仕草」というものを観察する深遠な目は、非常に近いものであるはずだ。あなたがどんな職業の人間であっても、磨かれた「行為」というものは美しい。その行為に意識を向けることは、必ず意味のあることだ。そう確信を持って言えるのは、菅野の目、菅野の行為をみていると、そう感じられて仕方ないからである。