技術と知恵

 

 

 株式会社エアロコンセプトの前身である株式会社菅野製作所は倒産したことがある。「菅野製作所っていう会社は、前は麻布にあったんだけど、バブルがはじけた後に潰れちゃったんだよね。それで、そのときに辛くて辛くて、あと30年生きられたら、もういいやって思っちゃったんだよな。だから、その30年のうちには、自分の好きなものをつくって、それから死んだらいいんじゃないかなってさ。それでエアロコンセプトをやることにしたんだ」。菅野製作所が一度、潰れている。それは大きな驚きである。これだけの技術を持った町工場が倒産するなどということがあるのが、素人目には不思議に映るのだ。菅野製作所が潰れてしまったのには理由は何なのだろう? それは、当時の菅野製作所が、1社からかなり大きな割合で仕事を請け負っていたことに起因する。

 

 「当時は、だいたい、仕事の8割、9割はそこの仕事だったね。計画したわけじゃあなかったんだけど、“うちは仕事量が多いから、他の仕事なんかしてないで手伝ってくれ”なんて言われて自然と一社優先の体制になってたんだな。まあ言わば、ひとつの会社の専属下請け的な存在だよな。多数の得意先と取引するより作業効率も好いわけだよ、永遠に続けばね。そうこうするうちに、その会社は突然、中国企業との合弁を計画しはじめたんだ。すると、仕事は人件費の安い中国に行くだろ?

そうしたらウチに来る仕事は激減するわけだ。それに連鎖して入金はなくなる。全部終わってしまうのなんて、アッと言う間の出来事だったよ。ウチはそんな風に倒産してしまったんだけど、その会社も合弁でつくった製品が全世界で大量の不良品出して、リコール回収費用で経営はダメになっちゃってさ。東証一部上場企業だよ。コパルって会社さ。今は日本電産コパルって名前になってる。元々はいい会社だったんだよ。創業者は、板橋の町工場を技術力で伸ばしていって上場企業にしたんだ。だから設計部の人間とは、本当に良く話し合いができて、いい仕事ができていたんだよ。それはさ、お互いが職人集団だったからできたことなんだ。でも、その会社の運のつきは、頭のいいやつを会社に入れたことにはじまったんだよ。上場後、創業者に代わって銀行から来た人間なんかが社長になった途端に、奇妙な事はじめるわけだよ。不採算部門の整理縮小っていうくらいなら、さすがのオレだって理解するさ。でもさ、製造会社の心臓部のはずの設計部の大幅なリストラやってみたり、中国との合弁でコスト競争始めたりでさ、急転直下、仕事減らされて”こりゃ大変だ!”と思ったときは、時すでに遅しさ」。

 

 菅野は、会社の倒産によって、窮地に立たされ、毎日毎日さまざまな辛苦をなめさせられた。祖父と父が大切に育んできた工場があっと言う間に、吹き飛んだ。父は半狂乱のような精神状態となり、従業員と家族は不安のどん底につき落とされ、毎日のように借金取りが家を訪ねてくるようになった。そして、工場、家、大きな持ち物、金目になるものはすべて銀行とこの借金取りたちによって、差し押さえられてしまうことになってしまった。さすがの菅野もそのプレッシャーには耐えられず、精神を病ませてしまった。そして、その経験があまりにも辛かったことから、残された道は、「自殺するだけ、死ぬしかない」と真剣に考えたのだという。菅野という、誰よりも真っすぐな人間が、自殺を考えたというのだから、それはそれは本当に真剣に考えたのだろう。しかし、彼が自殺をせずに済んだのは、ある不幸中の幸いとも呼べる、いい話が舞い込んできたからである。人が死というものと一度真剣に向き合うと、不思議とことがうまくまわることもあるのかもしれない。倒産のあと、菅野や菅野のモノづくりを熟知している知り合いが業務を引き継いでくれたのだ。それが株式会社渓水ということになる。

 

 「その時点でオレは代表者ではなくて、ただの職人としての勤め人に戻ったんだ。オレは組織のトップに君臨するのがあまり好きではじゃないから、ちょうど良い環境になったんだよ。ところがね、まわりからは”爺さんの代から引き継いできた菅野の血が大事なんだよ、お前また早く大将やれ”ってな声があがってくるんだ。大将ってのは会社では社長だったり代表取締役みたいな名前で、船なら船長、飛行機なら機長ってことで、これは組織の役柄なわけだよ。はっきり言っちゃうけど、モノづくりには興味あるけど代表取締役なんて、わけのわかんないことでも分かったふりしてなきゃいけないだろ?

だいたい人の上に人がいるってのは変なことだろ?

だから本当は嫌だったんだけど。まあ、流れとか責任いうものがあるからね。」とにかく、こうして、工場は不死鳥のごとくに生き残る道を見つけ、菅野も命拾いをすることになったわけである。

 

 菅野の工場が一度潰れてしまったにも関わらず、再び息を吹き返すことができたことを分析すると、ある一つの事実に行き当たる。それを端的に言えば、そこにはこの町工場でしかつくることのできない唯一無二の技術があったからだと言える。精密板金加工技術は、板金加工の精度をあげただけの技術なので、いわゆる一般の板金工でも、何がどうなって、どういう形になるのかを頭で理解することはできる。いわば、透明性のある技術なわけだ。

 

 ところが、極限まで精度の高められた板金技術を実際に自分の手を動かしてやってみようと思ったのなら、それは全く簡単にはいかない。自らの手を動かすことのない発注者は、この点を理解できない。だから、製造開発をコストの安いところ安いところへと、話しを持ってまわすのだ。菅野がいつも口にする、こんな言葉を彼らは知らないのだ。「いいかい。何か物事をただ知っているだけということと、何か物事を知っていて、それを自分でもできるということは、まるで違うことなんだ。そこには天と地ほども差があるんだよ」。

 

 発注の裁量を持つ机上のマネージャーたちは、似たような製造物を手にしても、安かろう悪かろうとはつゆほども考えることをしない。そして、ただひたすらにコストだけを削ろうと奔走する。コストを削ることに成功した発注者は、会社では高い評価を得ることができて、その敏腕ぶりから年俸の査定も高いものが得られるのかもしれない。しかし、現場では何が起っているのか? それは、その人の想像の外にある。ましてや、現場にいる人間の心が、どういう状態であるかなどということは想像だに及ぶことはない。つまるところ、モノづくりに対してのイマジネーションというものは、極めて希薄なままにモノづくりをしているのだ。

 

 大量生産というものが、結局のところをゴミの量産に陥ってしまうケースが少なくないという事実は、本当に皮肉なことだ。「想い」などカケラも必要としない。「想い」を込める時間も与えられることのないコスト削減の生産体制。その末にできあがってくるものが不良品の山であることは、まったく不思議なことではない。さて、そこで上手く製造することができなかったマネージャーはどう動くのだろう? そう、今度は手の平を返したように、必死になって、その技術を持っている工場を探し直すというわけだ。

 

 菅野製作所が潰れたとき、菅野は家も取られ、工場も取られ、財産という財産はほとんど差し押さえられてしまった。しかしこのとき、ひとつだけ残されているものがあった。それは、まだかすかな誇りだけは持っていた職人集団だった。そして、どんな法律でもどんな借金取りでも、決して奪えないものを彼らは持っていたのだ。それが、技術と知恵である。

 

「”腕と脳みそにあるものだけは、誰にもうばうことはできない”。これはさ、オレの知り合いが言っていたことなんだけど、まったくその通りだよな」菅野がそう口にしていたのを聞いたことがある。つまり、菅野の営んでいた渓水という工場が実体験として味わっていたのは、まさにそういうことだったのだ。時代の流れの必然として、一時的にキャッシュの流れから見放されていても、誰にも奪い去れないもの、技術と知恵を渓水は備えており、その技術と知恵がこの工場をなくてはならないものにしたのである。

 

 倒産後、幾社かを訪ね歩き、やはり渓水でなければ製造できないのだ、と気づき、数社の担当者がまた渓水をたずねてきた。菅野が彼らに対して言ったのは、「もうお終いだよ。だって、工場がなくなってしまったし、会社は倒産してしまったんだよ。」ということだった。しかし訪ねてきた数社からは、何とか工場のラインを復活させてウチのものをつくって欲しいと言われた。また1社からは銀行を紹介する、とまで言われたのだ。経営的に倒産した会社に、そうしたリクエストが出てくるのは、その会社に本当の意味での「価値」や「実力」があるからに他ならない。いつの世にも、実のある価値は活用される。この極めて当然な理屈が、現代社会においては、いとも簡単に忘れ去られてしまいがちなことを渓水のこのエピソードは思い出させてくれる。菅野は、こんなことを言っている。「ひとりひとりが実力と知恵を備えている会社や、細胞のひとつひとつが生き生きとしている社会をつくることができたなら、それが本当に強い日本へとつながっていくと思うんだよ」。

 

 菅野の町工場が今もあるのは、その数社が支えてくれたお陰なのだが、そのより芯の部分を探ってゆけば、そこにはやはり実力を備えた職人たちがいる。彼の工場が首の皮一枚で生き残れたのは、彼らが一朝一夕には誰にも真似できず、奪いとることのできない技術と知恵を自らの身体のなかに宿していたからだ。「安くやれ、早くやれ、とばかり言われていたのに、そういう状況になって、自分たちには特別な価値があるんだということがわかったときは、やっぱり嬉しかったよね」菅野は当時のことを思い出したように、感慨深げに微笑んだ。

 

 そしてこの菅野の経験は、ある大きな大きな副産物というもの、否、主産物と言っても過言ではないものをもたらせた。それは、「死んだつもりで生きていってやろう」という決死の覚悟とも言えるものであった。「オレは倒産してもう一度生きていこうと思ったとき、後、30年だけ生きられたらいい。何でかわからないけど強くそう思ったんだ」(菅野)。この緊褌一番の決意が、後にエアロコンセプトの土台となる「好きなものをつくってやろう」という意欲へとつながっていくのである。だから、エアロコンセプトというプロダクトは、倒産という事件に端を発し、そこから紡がれることになった物語でもあるのだ。事実ではあるが、こんな美談めいた話を文章にすれば、菅野はきっとこんないつもの口癖を言うだろう、「いやぁ、オレの物語なんて何だか照れくさいけどさ、本当にいい冥土の土産になるよ。」と。彼は、技術と知恵の力で生き残り、死ぬ覚悟で生きる力を手に入れた。そして、今日も、死を意識しながら、精一杯の今日を生きている。