人間とモノ

 

 

 菅野はモノづくりの人間である。そんなことは言うまでもない。職人であるのだから当たり前である。だが、その彼がモノに寄せる想いは案外知らない。彼がモノに向ける視点は、やはりひと味違う。モノを材料の集積物と捉えていたり、消えてなくなる存在としてとらえているのは、前にも触れた通りだ。しかし、それとは違う次元で彼はモノという存在群にもう一歩深く想いを巡らせているのだ。

 

 「まあ、多くのやつらはさ、モノというと、すぐに製造業だ、職人だって、そんな話をしはじめたがるんだけど、もっと根本的なところでモノというものについては、奥深く考えなきゃいけねぇだろうな。だって、少なくとも、こうやって文明化された都市のようなところに住むとしたらさ、常に人間がつくったモノに囲まれて育つわけだろ? それが生身の人間というものにどういう影響を及ぼすのか。本物のモノに囲まれているとか言うと、また、本物の定義が難しくなっちゃうけどさ。やっぱり、モノにはつくる側、つくり手の、何らかの意図が込められているのだからさ。その意図は、伝わると思うんだよな。ライカにしたって、ハッセルブラッドにしたって、素晴らしいんだよね。他のカメラじゃ替えがきかないモノだからさ。だったら、高価なモノが全ていいのか? って言われたら、そういうことじゃないんだよな。なんというか、モノの記憶というのは、人生の記憶であってさ、目に見えないところに、それはそれは大きな影響を及ぼしていると思うんだよ、オレは。だから、オレは幼い頃から、オヤジの持ついいものに触れてきたことと、職人としての仕事やエアロコンセプトが何らかの因果関係があるのかって聞かれたら、まあ、そういうこともあるかもしれないって思うよ。それによくさ、良い時計持ったり、良い財布持ったら、いい仕事が入ってくるようになった。なんて話、耳にしたりするけどさ、そういうことだってモノが心に影響を与えるんだとしたら、ありうると思うよな」。

 

 菅野は、幼少の頃から質の高いモノに触れてきた。それは、彼の父親がそうした所謂、本物ということを愛していたからである。その恩恵を存分に受けていたのが菅野なのだ。だから、こういう話がはじまると、大してモノにこだわりのない家庭に育った身としては、その劣等感とともに窮屈さを感じてしまう。しかし、彼が言いたいことは、高級すなわち本物ということとも違っているようなのだ。

 

「例えばさ、スパゲッティのナポリタンっていうのがあるよね。で、オレは、子どもの頃に近所の喫茶店で食べさせてもらったスパゲッティの記憶がいまだにあって、サラダ油でこってこってに光っていて、味はウンと濃いんだけど、それが凄く美味しく感じるんだよね。それがさ、大人になってイタリアに旅行でいって本場のナポリタンなんて食べるとさ、全然別物なわけじゃない? でも、何が本物のナポリタンかって言ったらだよ、オレにとっては、本場のナポリタンよりも、近所の喫茶店で食べたナポリタンの方が本物なんだよね。つまりさ、今のオレを形づくっているのは、そっちのほうなわけだよな」。

 

 菅野が言いたいのは、高級品に囲まれて、高級なところに住んで、高級な移動手段を用いることが、本物を育む、ということではない。何に囲まれていようとも、そのひとつひとつが大切であるということを言いたいように感じられる。無数のモノ、そしてそういった構成要素である無数のモノの集積である環境。彼が言いたいのは、そういうことではないのだろうか? そして、菅野を観察していて思うのは、彼は彼のまわりにあるひとつひとつのものを大切に扱い、愛しているということである。何かを食べるときも、何かに座るときも、何かを手に弄ぶときも、彼はひとつひとつのモノに丁寧に触れる。いや、丁寧に触れるというと、少し違うのかもしれない。丁寧というよりは、愛おしそうに触れるのである。ときどき工場を訪ねたりすると、菅野はそのゴツゴツした手に革靴を持って、これを丹念に磨いていたりする。その扱いに彼の愛情が溢れているように写るのだ。どうしてそれを感じるのかはわからないが、感覚値として、そう思うのだ。響いてくるのだ。彼は、囲まれているモノ、環境ということをとても敏感に察知できて、それを自らの影のように感じ取ることができる生き物なのではないだろうか。あるとき、菅野の工場の環境について褒めたことがある。「ここ川口では、休日は音がしなくて、とても静かな環境でいいですよね」と。

 

 「いいだろ。雨の日はね、雨の音が聞こえるし、風が強いときは風の音も聞こえるしね。それから、ウシガエルの鳴き声がしたり、猫が雨宿りして泣いていたりね。夏には、蝉の鳴き声だって聞けるからね。平日は、まわりの工場がちょっと大きな音を出したりもするんだけどね。反対面のところは、倉庫系だから割合に静かだしね。でも、この環境がオレにとっては、すごい落ち着く場所なんだよ。ほら、磯遊びに岩場でカニ獲りなんかするだろ? ああいうときにオレはいつも思うんだよ。あんなゴツゴツとした岩に囲まれているカニの隠れ場所は、さぞ居心地のいいところなんだろうなぁって。だって、岩は自然物だし、なんかいいだろ? そういう陰にいるのって? この工場はオレにとって、そういう場所なんだよな」

 

 菅野の工場にある事務所は、休みになると、仕事場というよりは、アトリエのような表情を浮かべる場所になる。彼にとって、お気に入りのモノがズラリと並び、自分の作品であるエアロコンセプトが並び、外からは動植物の息吹や太陽の光が入ってくる。菅野は、そうした自らを取り巻く環境をよく熟知している。熟知しているというのは、構成要素としてのモノ、ひとつひとつを、まるで自分自身であるかのように感じている節があるのだ。自分自身が拡張されたものとして、自分の背景として、モノというものや環境というものを感知しているわけだ。それらのなかには、高いものもあれば、安いものもあるし、自然のものも、人工のものも、国産のものも、海外製のものもある。それはまるで、子どもが自分の玩具に囲まれていて、その玩具のひとつひとつに意識を巡らせている感覚に近い。子どもが、遊びでつくる基地やオママゴトの食卓に通じるものがある。モノが彼を取り囲んでいるのだが、そのひとつひとつに彼は物語や言葉、もっと言えば心のようなもの、魂のようなものを感じている、そんな風に感じられる。つまり、彼の工場は、彼にとっての巣みたいな場所なのだ。何故、菅野が「モノについて奥深く考えなきゃいけないよ」というのか? その答えは、まわりにあるモノというのが、その人自身の心の移し鏡であるからだ、と彼は言外に言っている。

 

 「今はさ、イーオンとか、百円ショップとかで買われたモノ、ああいう大量生産品が生活空間で幅をきかせているだろ。日本で昔からよく言われるように、もしもモノがしゃべったり、魂が込められたりするのが本当だとしたら、ああいうところでつくられたものは、生活を急かす言葉を発するだろうし、人を疲れさせる言葉を発するだろうな。もしかしたら、今、日本で変な事件が増えたりしたのも、自殺が増えたのも、イジメが多いのも、人間がそういう仕組みの中に組み込まれてしまっているからかもしれないよな。人を蹴落としてでも、効率を優先させつくつくられてきたモノに囲まれているということって、要するにそういうことなんだろうと思うよ。」

 

 人間はモノをつくってきた。近代以降の世界では、そのモノに意識を置きすぎたゆえに、物質文明批判なども多く卓上に載せられ、今も喧々囂々の話し合いがなされてきたりもした。しかし、菅野の「モノへの深い考察」は物質文明の善悪を超えたところにあるように思える。それは、モノというものが、モノから成る環境というものが、いかに自分自身と深い関係があるか、そういうことを問うているからのだ。エアロコンセプトが生まれる巣、つぶさにそこにあるモノたちを観察すると、ひとつひとつが彼の息吹を宿している。だからこそ、彼はそこに究極の安らぎを感じ、そこを訪れる人にさえ、深い安堵を与えうるのだろう。今いちど、彼の周囲のモノを見渡し、自らの周囲のモノを見渡してみる。すると、確かに彼のまわりにあるモノたちと彼自身のつながりは自分と自分の周りのモノとは比べものにならないほど強い絆で結ばれているように思えてしかたがないのである。彼のモノに寄せる想いは、もしかしたら、風水や気学などに通じるのかもしれないが、それよりももっと根源的な人間とモノとのあり方を考え直させられるもの、筆者にはそう感じられて仕方がなかった。